11月19日 日曜日 晴れ

TS-1 6クール目 第20日目 涙、発疹の所が少し痒い。軟膏を塗る

乳がん2022 66

 入院中に医師から、退院したら、内服の抗がん剤を服用するようになるときいていましたが、実際には当時私に該当する抗がん剤はないと言われました。思ったより状態が良くてステージ、グレード、リンパにも転移なしということだと思います。2022年は何回か通院してホルモン療法をうけていました

2022年に発覚したがんとの闘いも終わりに近づき、2023年の足音が聞こえてきました。年末に近づくにつれて、ようようながら杖をついてゆっくり進めば近所のスーパーへも行けるようになりました。スーパーの入り口に3段の階段がありましたがそれは昇れなくてスロープの方を使っていました。足をあげるとバランスを崩すのと、足に力が入らないので危なかったのです。

 この頃は沢山の人にいろんな所で助けてもらいました。スーパーに行くと店員さんが籠を持ってくれて、エレベーターを使うと自分は乗らないのに私のためにボタンを押してくれる。もちろん、しまりかかっても私がエレベーターの方へ歩けが到着するまで待ってくれる。図書館でわずかセンチくらいの段差につまじきそうになれば、横から知らない人が助けてくれる。朝、ごみを捨てるときは、近所の人が捨ててくれたりしました。足がおかしくなってから、今(2023年11月19日)まで、本当にたくさんの方見知らぬ方たちが助けてくれました。素直に感謝したいです。

雑記55 時間の旅②

 1990年代の初めに中国へ行きました。丁度、人々が人民服を脱ぎだしたころです。人民服を着ている人は、あまり見かけなかったと思います。しかし、北京では道に広がる自転車の多さにびっくりしました。まだ、自動車は一般的ではなかったのでしょうか。

 ツアーで、上海、長安、北京をめぐる旅行でしたが、ある日、観光地に移動するためにバスに乗っていました。次の町までは遠く、途中で水が出ていて、バスもかなり浸かったようですが車高が高かったので無事だったようです。普通車やトラックが何台か止まっていました。

 その道は、昔は丁度良かったのかも知れませんが、もう、その時には自動車には狭くなって、対向車が来るとお互いに少し横に寄ったりしていました。側には木が等間隔で植えられていました。ポプラかプラタナスかそんな木だったように思いますが、記憶があいまいになって思い出すことが今では困難です。その木々の間から田畑が見えました。私は四国の兼業農家の出身です。木々から見える田畑の光景は故郷と似ていました。バスはその道を延々と私たち日本から来た観光客を乗せて進みました。ときどき、馬かロバに農産物を乗せた大八車のようなものをひかせて、ゆっくり進んでいく農夫と思われる人とすれ違いました。バスは結構スピードは出ていましたが、等間隔に流れる木々と向こうに広がる滔々と続く田畑のためにゆっくりと時間が流れていくようでした。私はバスの心地よい揺れに身を任せて、終わりが見えない、道の先を見ていました。多くの人は寝ていました。

 今では、あの道は、広げられて、綺麗に舗装されて、ロバで荷物を運ぶ人はもういないでしょうね。傍の木々は見ることは出来ないでしょうね。頭の中にしか存在しない道です。

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